宝光社からバードライン(県道36号線)を戸隠方面に進んでいくと次に見えてくるのが、「火之御子社(ひのみこしゃ)」です。
戸隠神社の宝光社、中社、奥社はいずれも平安時代から明治維新まで神仏習合(※)であったのに対して、火之御子社(ひのみこしゃ)は創建当初より一貫して神社であったと言われています。
※日本土着の神祇信仰(神道)と仏教信仰(日本の仏教)が混淆し一つの信仰体系として再構成(習合)された宗教現象
火之御子社(ひのみこしゃ)のご祭神
主祭神:天鈿女命(あめのうずめのみこと)
配祀:高皇産御霊命(たかみむすびのみこと)、栲幡千々姫命(たくはたちちひめのみこと)、天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)
古事記や日本書紀に有名な「天の岩戸伝説」が記されていますが、その「天の岩戸伝説」で岩屋の中にお隠れになった天照大神(あまてらすおおのかみ)を誘い出す舞を踊った女神である天鈿女命(あめのうずめのみこと)を火之御子社はご祭神としています。
また「火之御子」は「日御子」とも考えられることから、天照大神の御子神である天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)がご祭神として考えられ、またその関係する神々(※)を祀ることとされたようです。
※栲幡千々姫命(たくはたちちひめのみこと)は天忍穂耳命の妻、高皇産御霊命(たかみむすびのみこと)は栲幡千々姫命の父
火之御子社(ひのみこしゃ)のご神徳(ご利益)
舞楽、芸能、火防、結縁
岩屋にお隠れになった天照大神(あまてらすおおのかみ)を誘い出す舞を踊った女神である天鈿女命(あめのうずめのみこと)を主神として祀っていることから、舞楽、芸能に功験があると言われてます。
また日本書紀では、岩戸の前で天鈿女命が舞を踊ったときに、火が焚かれていたことから、火防にも功験があると言われてます。
さらに天孫降臨(※)のときに天の八衢(やちまた)で邇邇藝命(ににぎのみこと)を待っていた猿田毘古(さるたひこ)に最初に名前を聞いたのが天鈿女命であるとされています。
そして猿田毘古の案内で邇邇藝命が天降るのですが、その後、猿田毘古の名前を天鈿女命がもらい受け、舞楽を舞う猿女君(さるめのきみ)と名乗ることになり、さらにその後、猿田毘古と天鈿女命が夫婦となったことから、結縁にもあらたかな功験があると言われてます。
※日本神話において、天照大神の孫神である邇邇藝命が、天照大神の神勅を受けて葦原中国(日本)を治めるために高天原(神々の住む世界)から日向国の高千穂峰へ天降(あまくだ)ったことをいう
天の岩戸伝説
「天の岩戸伝説」は古事記や日本書紀に記されています。
「天の岩戸伝説」
その昔、神々がまだ高天原で暮らしていたころ、天照大神(あまてらすおおのかみ)の弟である建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)は、田の畔を壊して溝を埋めたり、御殿に糞を撒き散らしたりと数々の乱行を行っていました。 これを見た天照大神は「何か考えのあってのこと」と建速須佐之男命の乱行を許していました。 ところがある日、天照大神が機屋で神に奉げる衣を織っているとき、建速須佐之男命が機屋の屋根に穴を開けて、皮を剥いだ馬を落とし入れました。 これに驚いた天の服織女の一人が、梭(ひ、はた織りでよこ糸を巻いた管を入れて、たて糸の中をくぐらせる小さい舟形のもの)が陰部に刺さって死んでしまいました。 ここまで建速須佐之男命の乱行を許してきた天照大神でしたが、これにはたいそうお怒りになられ、天岩戸に引きこもってしまわれました。 その結果、高天原も葦原中国(日本)も闇となり、さまざまな禍(わざわい)が生じることとなってしまいました。 そこで八百万の神々が天の安河の川原に集まり、なんとか天照大神に外に出てもらおうと相談したのですが、中社のご祭神である天八意思兼命(あめのやごころおもいかねのみこと)の考えで、さまざまなことを試してみました。 まず長鳴鳥(鶏)を集めて鳴かせてみました。また八尺瓊勾玉と八咫鏡を作らせ、祝詞(のりと)を唱えさせたりしました。 でもそれでは、天照大神は岩戸から出てこられませんでした。 そこで天鈿女命(あめのうずめのみこと)が、岩戸の前に桶を逆さまに置き、その上で胸をさらけ出し、裳の紐を陰部までおし下げて「とんとん、とととん、と」と妖艶に踊りました。 すると高天原が鳴り響くように八百万の神が一斉に大声で笑いました。 これを聞いた天照大神は不審に思い、天岩戸の扉を少し開け「自分が岩戸に引きこもって、世の中は闇になっているはずなのに、なぜ天鈿女命は楽しそうに舞を舞い、八百万の神は笑っているのか」と尋ねました。 すると天鈿女命は「貴方様より貴い神が表れたので、喜んでいるのです」といい、天照大神に鏡を差し出しました。 すると鏡に写る自分の姿をその貴い神だと思った天照大神が、その姿をもっとよくみようと岩戸をさらに開けたそうです。 そのとき、隠れていた奥社のご祭神である天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)が天照大神の手を取って岩戸の外へ引きずり出し、二度と岩屋に引きこもらないように、岩戸を遠くに放り投げました。 こうして高天原も葦原中国(日本)も光を取り戻し、平和な日々が訪れるようになりました。 |
この放り投げた岩戸が戸隠に飛来し、戸隠山になったと言われています。
火之御子社(ひのみこしゃ)の駐車場
火之御子社には無料駐車場が用意されていますが、3台分のスペースしかありません。
満車の時の対応など、駐車場情報はこちらの記事にまとめていますので、お車でお越しの方は、ご確認ください。
火之御子社(ひのみこしゃ)の境内
鳥居
火之御子社の鳥居は、石造りの鳥居となっています。
境内へと続く石段の手前に鳥居が立っています。
トイレ
鳥居をくぐって石段を上がり、左手へ進んでいくとトイレがあります。
手水舎
火之御子社の手水舎は屋根がないため、注意しておかないと見落としてしまいます。
鳥居をくぐって石段を上ったら、石垣が見えるのですが、左手方向に手水舎がありますので、参拝前に手を洗い、口をゆすぐようにしましょう。
本来は神聖な場所に参る前に禊祓(みそぎはらえ)を行うこととされていますが、手水舎で手を洗い、口をゆすぐことによって、一般参拝者向けに簡略に禊祓を行ったことになります。
【手水舎での作法】
- 柄杓を右手で持ち、左手を洗います。
- 左手に柄杓を持ち替えて、右手を洗います。
- もう一度柄杓を右手に持ち替えて左手に水を移してから、その水で口をゆすぎます(柄杓は次の人も使用しますので、直接口につけないようにしましょう)。
- 手の水を流し、もう一度左手を洗います。
- 最後に水を残ったので、柄杓を立てて手を持っていた部分を洗って柄杓を元に戻します。
社殿
社殿の創建年は不詳とされていますが、戸隠に関する数々の縁起本を整理・編集した「戸隠山顕光寺流記」には第22代別当(寺務を統括する僧職)の頃(1100年頃)に「火之御子社宝殿を修造」と記されていますので、戸隠神社が三院体制になってしばらくして、火之御子社が創建されたと考えられています。
今の社殿は明治17年(1884年)に再建されたものですが、平成6年(1994年)に屋根や土台の大修繕が行われ、現在に至っています。
夫婦杉
社殿の左手奥に樹齢500年を超える「夫婦の杉(二本杉)」があります。
火之御子社に参拝された際には、ぜひご覧ください。
西行桜(さいぎょうざくら)
火之御子社の社殿に向かって右手奥に「西行桜」と呼ばれるオオヤマザクラがあります。
この西行桜には以下の言い伝えがあります。
西行法師は平安時代末期の僧侶で、歌人としても有名です。
ある年の5月、善光寺参拝に続いて戸隠にも詣でようと参道を歩いていました。 ちょうど火之御子社に差し掛かると、地元の子供たちが遊んでいましたが、西行の姿を見ると桜の木に登って行ってしまいました。 子供好きの西行はいたずら心から「猿稚児と見るより早く木に登る」(猿のような子供たちだな、と思う間に木に登ってしまった)と木の上の子供たちに声をかけました。 すると「犬の様なる法師来たれば」(犬のようなお坊さんがやってきたからだよ)と答えるではありませんか。 実はこれよりも先に一の鳥居でも子供たちをからかったつもりが逆にやり返されていた西行は子供たちの賢さに驚き、また、戯れ心を起こした自分を恥じて、「これ以上神域に立ち入ったらどんな恐ろしいことが起こるか分からない」と火之御子社から戸隠山を遥拝し、引き返したと言われています。 |
この後サクラは戦国時代に武田と上杉の川中島合戦の際に、火之御子社の社殿とともに焼失し、新たに植えられたとされています。
現在見ることのできるオオヤマザクラは、その後何回も代を重ねたものだと言われています。
神道(かんみち)
神道は宝光社と火之御子社、中社の三社をつなぐ森の中の道で、神々がここを通って行き来しているのではないかと思わせるような趣のある道です。
この神道を通って、宝光社あるいは中社へ行くことが可能です。
神道(かんみち)を歩いて中社まで行くなら、こちらの記事を見てください。
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