火之御子社からバードライン(県道36号線)を戸隠方面に進んでいくと次に見えてくるのが、「中社(ちゅうしゃ)」です。
戸隠に関する数々の縁起本を整理・編集した「戸隠山顕光寺流記」によると、宝光社が創建され30余年後の寛治元年(1087年)に当時の別当(寺務を統括する僧職)が「もともと当院は三院であるべき」との夢を見て、奥院(現在の奥社)と宝光院(現在の宝光社)の中間に位置するこの地に中院(現在の中社(ちゅうしゃ))を創建したと記されています。
本当に夢のお告げがあったのかは分かりませんが、奥院は修業向きではあったものの、冬期は寒さが厳しく、そこで生活するには不向きな地であったことから、冬期は奥院の衆徒(※)もこの地の里坊(山寺の僧などが人里に構える住まい)で暮らしていたようです。
※寺院に居住して学問・修行の他に寺内の運営実務にあたった僧侶身分のこと
また別当(寺務を統括する僧職)の住居である勧修院もこの地にあったことから、なにかと都合の良いこの地に中院が創建されたということのようです。
中社(ちゅうしゃ)のご祭神
天八意思兼命(あめのやごころおもいかねのみこと)
天照大神(あまてらすおおのかみ)が、弟である建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)の乱行に怒って岩屋に引きこもった際に、天照大神を誘い出す方策を考え、岩戸を開くきっかけを作られた神で、中社のご祭神とされています。
中社(ちゅうしゃ)のご神徳(ご利益)
学業成就・商売繁盛・開運・厄除・家内安全
「八意(やごころ)」は立場を換えて思い考えることを意味します。また「兼(かね)」は1人で2つ以上のことをこなすという意味することから、数多の知恵を一身に集約する神様ということで、天八意思兼命(あめのやごころおもいかねのみこと)は知恵の神様であり、それをご祭神とする中社は学業成就・商売繁盛などに功験があると言われています。
中社(ちゅうしゃ)の駐車場
中社(ちゅうしゃ)周辺には2か所の無料駐車場と1か所の有料駐車場があります。
中社(ちゅうしゃ)の駐車場情報はこちらの記事にまとめていますので、お車でお越しの方は、ご確認ください。
中社(ちゅうしゃ)の境内
鳥居
鳥居は2か所に立っています。
まず正面の大鳥居です。
大鳥居は木製の鳥居で趣があります。
もう一つの鳥居は西参道入口に立っています。
西参道入口に立っている西鳥居は鋼鉄製で、比較的最近立てられたものです。
トイレ
木製の大鳥居をくぐって、右手にある手水舎の奥にトイレがあります。
また「西側無料駐車場」にもトイレがありますので、いずれかをご利用ください。
手水舎
中社(ちゅうしゃ)の手水舎は2か所あります。
一つは正面の大鳥居をくぐった先の右手にあります。
また西鳥居をくぐった先にも手水舎があります。
いずれかで参拝前に手を洗い、口をゆすぐようにしましょう。
本来は神聖な場所に参る前に禊祓(みそぎはらえ)を行うこととされていますが、手水舎で手を洗い、口をゆすぐことによって、一般参拝者向けに簡略に禊祓を行ったことになります。
【手水舎での作法】
- 柄杓を右手で持ち、左手を洗います。
- 左手に柄杓を持ち替えて、右手を洗います。
- もう一度柄杓を右手に持ち替えて左手に水を移してから、その水で口をゆすぎます(柄杓は次の人も使用しますので、直接口につけないようにしましょう)。
- 手の水を流し、もう一度左手を洗います。
- 最後に水を残ったので、柄杓を立てて手を持っていた部分を洗って柄杓を元に戻します。
狛犬
中社(ちゅうしゃ)には三対の狛犬がいます。
まず大鳥居をくぐって、すぐのところにいる狛犬です。
凛々しい顔つきで頼りがいのある感じがする狛犬です。
続いて石段を上った先に二対の狛犬がいます。
こちらの狛犬たちはどことなく愛嬌のある顔つきをしているように思います。
また五斉神社入り口にも狛犬が置かれています。
こちらは少し小さめの狛犬たちです。
石段
大鳥居をくぐった先に石段があります。
足に自信のない方は、石段手前の左手にゆるやかな坂になった「女坂」がありますので、こちらをご利用ください。
なお冬期は積雪のため、石段は閉鎖されますので、「女坂」を利用して参拝するようにしてください。
御神木
石段を上りきると左手側に樹齢700年の御神木を見ることができます。
御神木は少し傾きが見られ、倒木防止のためにワイヤーで固定されています。
多くの参拝者が御神木に近づき、根の周辺を踏み固めてしまったことにより樹勢が衰えて傾いてしまったようです。
現在は御神木周辺は囲いを作って立ち入りを制限していますので、むやみに立ち入らないようにしてください。
社殿
中社(ちゅうしゃ)の社殿は寛治元年(1087年)に創建された後、何度か建て直されています。
その中でも嘉永5年(1852年)に造営された社殿が昭和17年まで残っていたのですが、昭和17年に発生した火災で焼失してしまいました。
その後昭和31年に再建された社殿が現在の社殿です。
妻入り向拝唐破風付きの社殿で外陣の中央に神楽の舞台が作られており、毎年数々の太々神楽(だいだいかぐら、神社の祭礼の時、神様に捧げる歌や舞の総称)が奉納されています。
また拝殿の天井には江戸末期から明治にかけて活躍した河鍋暁斎(かわなべぎょうさい)による龍の絵が描かれています。
オリジナルは昭和17年の火災で焼失してしまっていますが、現在の拝殿の天井には絵葉書をもとに復元された絵が描かれています。
青龍殿(せいりゅうでん)
社殿に向かって右手に青龍殿があります。
青龍殿に併設されている宝物館では戸隠神社のさまざまな社宝を見ることができます。
なかでも通天牙笏(つうてんげしゃく)は法隆寺に1枚、正倉院に3枚、道明寺天満宮に1枚、そして戸隠神社に1枚と現存する6枚の内の1枚を見ることができます。
【宝物館入館料】
中学生以上300円、小学生200円
夏季 9:00~16:30、冬季 9:00~16:00
さざれ滝
社殿右奥を進むと滝が見えてきます。
滝の周りにはマイナスイオンが溢れており、神秘的な雰囲気を味わうことができますので、ぜひお立ち寄りください。
三本杉
中社(ちゅうしゃ)境内に「三本杉」と言われる杉の大木を三本見ることができます。
いずれの杉も樹齢800年程度と見られる大木です。
三本杉は命乞いする人魚を殺し、その肉を喰らった三人の子供を救うために、漁師が植えたと言い伝えられています。
三本杉伝承
昔々、若狭の国に漁師がおりました。 漁師の妻は早くに亡くなってしまい、漁師は子供三人と暮らしていました。 ある時、いつものように漁に出かけた漁師は、入江で水浴びする美しい女を見つけました。 漁師はしばしその美しさに目を奪われ、見とれていましたが、よく見ると女性の体がウロコで覆われていることに気づきました。 漁師は、「これが人魚というものか。他の者にも見せてやりたい」と持っていた漁具で人魚を捕まえてしまいました。 捕まった人魚は一生懸命に命乞いしましたが、漁師はこれを聞き入れず、ついに人魚を殺してしまいました。 漁師は死んでしまった人魚の肉を家に持ち帰り、子供たちに見つからないように隠しました。
翌日、漁師はいつものように漁に出て、子供たちは家で留守番をしていました。 留守番をしていると、だんだんお腹が空いてきて、食べ物がないかと探したところ、漁師の隠した人魚の肉を見つけて、食べてしまいました。
漁師が家に帰ると、昨日隠した肉が見当たりません。 そこで子供に聞いてみると、なんと「食べてしまった」というではありませんか。 漁師はたいそう驚きました。 なぜなら、人魚の肉を食べた者は人魚になってしまうと、古くから言い伝えられているからです。 そしてその言い伝えのとおり、みるみる子供たちの身に異変が現れ、次から次へと体にウロコが生えてきました。 でも漁師はなすすべもなく、眠れない日々を過ごしていました。 そんなある日、眠っているときに 「漁師よ、剃髪して出家せよ。そして戸隠大権現に詣で、子供を救うため、忠誠を誓うため、三本の杉を植えよ。そして、戸隠三社の御庭草を八百日踏んで、そちの無益殺生の後悔の真情を神に祈れ」とのお告げがありました。 目を覚ました漁師のそばには、すでに冷たくなった三人の亡骸がそこにありました。
漁師は、早速、このお告げを近くの住職に語り、お告げのとおり剃髪をし、名を八百比丘と改めて、お告げのとおり戸隠大権現へはるばる赴きました。 そして現世の減罪と永代の繁栄を祈りつつ、正三角形に三本の杉を植え、三社の御庭草を八百日踏んで、八百比丘の名を残しました。 |
守護不入之碑(しゅごふにゅうのひ)
旧本坊勧修院の宿坊久山館の入り口を少し入ったところに守護不入之碑(しゅごふにゅうのひ)があります。
正面には「山中支配領内守護不入」、側面には「戸隠山別当職勧修院」と記されています。
明治以前は表門前に建っていたものなのですが、いつしか現在の場所に移転されてしまっています。
その昔、戸隠神社がまだ神仏習合の戸隠顕光寺であった頃、戸隠顕光寺は江戸幕府より千石の石高を預かり、この地を治めていました。
そして近隣大名に対して、戸隠の独立性を主張したのが、この「守護不入之碑(しゅごふにゅうのひ)」です。
他領で罪状を犯した者でも、この地に逃れてくれば、例え守護や地頭でも、この者を逮捕することはできず、戸隠は治外法権が認められていたと言われています。
諏訪社(すわしゃ)
大鳥居の右手に五斉神社へと続く石段があります。
石段の先で最初に見えるお社が諏訪社(すわしゃ)です。
天神社(てんじんしゃ)
諏訪社(すわしゃ)の横のお社が天神社(てんじんしゃ)です。
宣澄社(せんちょうしゃ)
天神社(てんじんしゃ)の右手にあるのが、宣澄社(せんちょうしゃ)です。
時代は戦国の世、戸隠では天台派と真言派の争いがありました。そんな中、応仁二年(1468年)に天台派の「天台宗大先達宣澄阿闍梨(てんだいしゅうだいせんだつせんちょうあじゃり)」が真言派に暗殺されてしまいました。
「宣澄(せんちょう)」が暗殺されたと真言宗の寺院は大火にて消失し、「宣澄(せんちょう)」のたたりだと恐れられました。
そこで宝永五年(1708年)に怪無山(けなしやま)山頂に「宣澄(せんちょう)」の墓牌を建立し、里宮として戸隠神社中社境内に隣接する五斉神社の中の一社として建立されたものです。
なお例祭で奉納される「宣澄踊り」は野良着姿に手拭で頬かぶりをした男性が酒を飲みながら唄い踊るもので、修験道との関係も深いとされ長野市無形重要文化財に指定されています。
石仏
宣澄社から少し上がった先に石仏が並んでいます。
日吉社(ひえしゃ)
中社の手水舎の横に日吉社(ひえしゃ)があります。
ご祭神は「瀧津姫命(たきつひめのみこと)」。
宝永四年(1707年)に比叡山の日吉大社から勧請(神仏の分霊を請(しょう)じ迎えること)したとのことです。
神道(かんみち)
神道(かんみち)は宝光社と火之御子社、中社の三社をつなぐ森の中の道で、神々がここを通って行き来しているのではないかと思わせるような趣のある道です。
宝光社、火之御子社の駐車場が満車の場合は、中社の駐車場に車を停めて宝光社、火之御子社まで歩いていくことも可能です。
中社(ちゅうしゃ)の大鳥居前からおみやげ処宝泉と戸隠観光センターの間を進んでいくと神道に出ることができます。
火之御子社(ひのみこしゃ)までの詳しい道は、こちらの記事を見てください。
宝光社、火之御子社、九頭龍社、奥社の見どころは、こちらの記事を見てください。
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