戸隠古道は、一の鳥居から戸隠神社奥社まで続く古(いにしえ)の人々も歩いた巡礼の道です。
車で五社巡りするのも手軽でいいのですが、車のスピードでは味わえないものがあります。
戸隠の歴史と文化、大自然を満喫したいなら、戸隠古道をゆっくり歩いてみてどうでしょうか。
ルート(一の鳥居苑地から奥社まで)
古(いにしえ)の人々は、一の鳥居をくぐり、戸隠神社の神領に入っていました。
なので今回ご紹介するルートは、一の鳥居苑地を起点としています。
また途中に点在するさまざまな史跡なども合わせて観光することができるおすすめのルートです。
- 一の鳥居苑地→大久保の茶屋→戸隠展望苑→祓沢(はらいざわ)
- 祓沢→湯之嶺夕日展望苑(ゆのみねゆうひてんぼうえん)→一の午王橋供養石(いちのごおうばしくようせき)→五輪塔「熊の塔」→戸隠商工会館前道標→戸隠商工会館
- 戸隠商工会館→双体道祖神(そうたいどうそじん)→幽魂社碑(ゆうこんしゃひ)と宝篋印塔(ほうきょういんとう)→地蔵堂(じぞうどう)→宝光社(ほうこうしゃ)
- 宝光社→伏拝所(ふしおがみしょ)→火之御子社(ひのみこしゃ)
- 火之御子社→中社(ちゅうしゃ)
- 中社→女人堂跡(にょにんどうあと)→比丘尼石(びくにいし)→戸隠山公明院→稚児の塔(ちごのとう)→展望台→奥社参道入口
- 奥社参道入口→一龕龍王祀(いっかんりゅうおうし)→高妻山神鏡碑(たかつまやましんきょうひ)→随神門(ずいじんもん)→杉並木→講堂跡(こうどうあと)→九頭龍社→奥社
距離(一の鳥居苑地から奥社まで)
一の鳥居苑地から奥社までの距離は、およそ12.5kmの道のりです。
ただし奥社まで行った後、奥社参道入口まで歩いて戻ってこなければならないので、実際の歩行距離は14.5km程度になります。
多少のアップダウンはありますが、ほとんどのところで平坦な道が続きますので、初心者にもおすすめのトレッキング(ハイキング)コースです。
コース | 距離 |
一の鳥居苑地~祓沢(はらいざわ) | 3.5km |
祓沢~戸隠商工会館 | 3.0km |
戸隠商工会館~宝光社(ほうこうしゃ) | 0.6km |
宝光社~火之御子社(ひのみこしゃ) | 0.7km |
火之御子社~中社(ちゅうしゃ) | 0.7km |
中社~奥社参道入口 | 2.0km |
奥社参道入口~奥社(おくしゃ) | 2.0km |
合計 | 12.5km |
所要時間(一の鳥居苑地から奥社まで)
一の鳥居苑地から奥社まで1km15分のペースで休憩せずに歩くと3時間少々で到達することが可能です。
でもせっかくなので、戸隠神社の五社巡りをしたり、途中の史跡なども観光したり、昼食に戸隠そばを食べたりしながら、ゆっくり歩くことをおすすめします。
五社巡りする時間や昼食時間も含めると全体で7時間くらいの時間を見ておくと良いでしょう。
戸隠古道を歩く際の注意点
歩きやすい格好で
戸隠古道の多くは舗装されていない道を歩くことになります。
登山靴のような本格的なものまでは必要ありませんが、できるだけ歩きやすい格好で、いらしてください。
標高に合わせた防寒対策を
戸隠古道は標高1,300m前後のところを通っています。
従って長野市街地と比べても6℃程度気温が低いことが多いです。夏は涼しくてよいのですが、春先や秋口は思いの他、冷え込む日もあります。
防寒着を用意するなど、標高に見合った防寒対策を行うようにしてください。
飲み物を用意しましょう
戸隠古道沿いには、ほとんど飲み物の自動販売機はありません。
夏は熱中症にならないようにするためにも、飲み物を用意して、戸隠古道を歩くようにしてください。
なお用意するのを忘れた場合でも、一の鳥居苑地に来るまでの大座法師池周辺に飲み物の自動販売機がありますので、ご利用ください。
熊鈴と虫よけを用意しましょう
戸隠古道は、場所によっては山道をあるくことになります。
夏はたくさんの虫が飛んでいますので、虫よけを忘れずに持っていくようにしてください。
また近隣では熊の目撃情報も多数ありますので、熊鈴を付けて、歩くようにしてください。
車は一の鳥居苑地駐車場へ
一の鳥居苑地には無料駐車場があります。車やレンタカーは一の鳥居苑地の無料駐車場に停めるようにしてください。
大座法師池から2kmほど走ると「長野カントリークラブ」の看板が見えてきます。
「長野カントリークラブ」の看板を過ぎると、すぐに右手に一の鳥居苑地の駐車場が見えてきますので、対向車に注意して駐車場へ入ってください。
バスの場合は、「飯綱登山口」バス停で降りてください。
また帰りは「戸隠奥社入口」よりバスで、ここまで戻ってくることが可能です。
「一の鳥居」バス停より、「飯綱登山口」バス停のほうが駐車場に近いので、「飯綱登山口」バス停で下車してください。
トイレ
一の鳥居苑地からスタートすると地蔵堂近くの公衆トイレまで、しばらくトイレがありません。
従って、出発前にこちらのトイレをご利用ください。
一の鳥居苑地から祓沢(3.5km)
一の鳥居苑地から祓沢まではおよそ3.5kmの道のりです。
一の鳥居跡(いちのとりいあと)
古くから戸隠神社の神領(しんりょう、神社の領有地のこと)への入り口として、この地に一の鳥居が建てられていました。
現在見ることができる鳥居跡は、寛政年間(1789年ごろ)に当時の別当(寺務を統括する僧職)である尭瑢が木製の鳥居が朽ちやすいことを憂いて建てた石造りの鳥居の跡です。
弘化四年(1847年)の善光寺地震(M7.4の大地震だったと言われています)で倒れてしまい、現在は当時の石材や基礎が残るのみとなっています。
六十六部供養塔(ろくじゅうろくぶくようとう)
六十六部とは法華経を六十六部書き写し、日本全国六十六か国の国々の霊場に一部ずつ奉納してまわった僧のことを言います。
この供養塔はいつ、どんな目的で建てられたものなのかは不明ですが、もしかすると満願結縁し、納経し終えた記念に建てた塔なのかもしれません。
なお供養塔の裏には「文化戌辰年五月吉日 是より戸かくし迄五十二丁(一丁は109mなので、五十二丁は約5.6km)」と記されています。
丁石(ちょういし)
戸隠古道には一丁(約109m)ごとに丁石(ちょういし)と呼ばれる道標が置かれています。
昔の丁石は持ち去られたり、雪で埋まってしまったりして、残っているものは少なく、多くの丁石は新たに設置されたものとなっています。
また一の鳥居苑地には、スタートとなる道標を見ることもできます。
この道標には、「従是中院神前迄五十三丁」と記されています。
九頭龍大権現の抜け穴(大久保西の茶屋)
大久保西の茶屋の裏側にある大石は、九頭龍大権現が大座法師池に出かけるのに通った抜け穴と言われています。
私有地の中にありますので、見てみたい人は大久保西の茶屋で声を掛けてみてください。
戸隠展望苑
祓沢の手前に戸隠山を一望できる展望苑があります。
手前の広大な農地にはそばが植えられており、9月上旬から中旬までは満開のそばの花の向こうに戸隠山を望むこそができます。
祓沢(はらいざわ)
一の鳥居から二十八丁(約3.0km)のところにあるのが祓沢(はらいざわ)です。
ここは宝光社、中社、奥社のどこへ行くにも必ず通らなければならない場所なので、ここに関所が置かれたこともありました。
またかつては、茶屋や馬屋もあったようですが、今はその痕跡すら確認することはできません。
道標には、「右ちう(ゐん)」、「左ほ[本]うくハう(ゐん)御宮道」と書かれています。
( )の中の字は明治の廃仏毀釈の時に削り取られたことが確認できます。
祓沢までの詳しい道のりは、こちらの記事を見てください。
祓沢から戸隠商工会館(3.0km)
祓沢から戸隠商工会館までの道のりは、およそ3.0kmあります。
湯之嶺夕日展望苑(ゆのみねゆうひてんぼうえん)
湯之嶺夕日展望苑は、右手に戸隠連峰、左手に「荒倉山」、中央奥には「白馬・鹿島槍ヶ岳」などを一望できる絶景ポイントです。
春と秋の一定期間に北アルプス連峰に夕日が沈む幻想的な景色を楽しむこともできます。
ここには「戸隠そば博物館とんくるりん」の大滑り台もありますが、2014年に事故があり、現在も使用が禁止されています。
一の午王橋供養石(いちのごおうばしくようせき)
四十二丁の丁石のところにあるのが、一の午王橋供養石(いちのごおうばしくようせき)です。
新しい橋を架けたときに、古い橋を供養するために建てたものと言われていますが、真偽は定かではありません。
供養石の側面には「文化七寅午歳七月造作之 徳善院順寛 村越義光」と記されており、文化七年(1810年)に置かれたものであることが分かります。
「左ぜんくハうじ道 右うえの村みち」とも記されており、道標の兼ねています。
五輪塔「熊の塔」
一の午王橋供養石(いちのごおうばしくようせき)の反対側に、五輪塔「熊の塔」があります。
下から地輪を意味する四角、水輪の丸、火輪の三角(笠)、風輪の半球、空輪の宝珠からなっており、全体で全世界を表していました。
この塔は水輪の丸が抜けていますが、それでも高さは170cmほどあります。
五輪塔は各地にあって、死者の供養のためや墓標として作られてきましたが、今ではその意味も不明になり、熊の霊を弔ったものだともいわれています。
戸隠商工会館前道標
戸隠商工会館の敷地の片隅に道標があります。
道標には「右宝光院御宮 左鬼無里(きなさ)」と記されています。左に進むと昔は鬼無里まで続く道でした。
祓沢から戸隠商工会館までの詳しい道のりや見どころについては、こちらの記事を見てください。
戸隠商工会館から宝光社(0.6km)
戸隠商工会館から宝光社までの道のりはおよそ0.6kmあります。
双体道祖神(そうたいどうそじん)
戸隠商工会館前を宝光社(ほうこうしゃ)の方へ進んでいくと右手に墓地が見え、その入り口に双体道祖神(そうたいどうそじん)が置かれています。
この道祖神には黒い煤がついています。内と外の境にあって外から禍(わざわい)が入るのを防いできた道祖神は、毎年1月15日に行われるどんど焼きで一年間の禍が焼き払われるため、黒い煤が付いています。
幽魂社碑(ゆうこんしゃひ)と宝篋印塔(ほうきょういんとう)
安永九年(1780年)に戸隠では、雪舟(そり)事件と呼ばれる宝光院衆徒と中院衆徒による争いが起こりました。
薪の切り出し運搬の権利などに関する争いで、宝光院衆徒は別当(寺務を統括する僧職)へ抗議のため院坊を出て、寺社奉行などに提訴したのですが、最終的には敗訴してしまいます。
そのため宝光院に戻ることも出来ず追放となり、他国で亡くなったと言われています。
この幽魂社碑は衆徒17坊の霊の帰還を祈って明治14年に建立されたものです。
また隣にある宝篋印塔は本来、経文を収めるためのものですが、昔は宝光社に個人の墓がなかったことから、ここに埋葬されたと言われています。
地蔵堂(じぞうどう)
地蔵堂には、地藏菩薩と十王(地獄において亡者の審判を行う裁判官たちのこと)の他、神仏分離で神社の外に出された仏像等が安置されています。
かつては、地蔵堂と十王堂は別にありましたが、神仏分離の際に規模を縮小され、一つにされました。
主尊は延命地蔵(えんめいじぞう)で地中に半身が埋まっています。一年に少しずつ浮き上がり、全部浮き上がった時に、世の中に大変なことが起こるとう言い伝えがあります。
また左手にある二体の像のうち、右が学問行者(がくもんぎょうじゃ)、左が役の行者(えんのぎょうじゃ)です。
学問行者は戸隠山を開山したと言われている行者です。この像はかつては戸隠神社にありましたが神仏分離の際にここに移されました。
また役の行者は修験道の開祖と言われる行者です。こちらの像もかつては奥社、中社、宝光社にそれぞれ安置されていたものが、神仏分離の際にここに移されたものです。
また右手には十王像(じゅうおうぞう)が並んでいます。
残念ながら三回忌を裁く五道転輪王(ごどうてんりんおう)の像が平成四年に盗難にあってしまい、ここにはありません。
なお有名な閻魔大王(えんまだいおう)は五番目の裁きを担当しているそうです。
蘭喬句碑(らんきょうくひ)
地蔵堂の横に1864年に建立された長野市平林の俳人「闌喬」の句碑があります。
もともとは奥社にあったものを神仏分離の時に移したといわれています。
句碑には「声無九亭(こえなくて)大念仏や苔の露 墨林庵 蘭喬」と記されています。
また宝光社の方へ少し進んだところにある武井旅館の前にも「闌喬」の句碑があります。
こちらの句碑には「神つ代乃明けるや花の明かり先 蘭喬」と記されています。
随神門跡(ずいじんもんあと)
地蔵堂から宝光社へ向かって坂道を上っていくと、途中で奥田旅館があります。
かつてはこの場所に随神門(ずいじんもん)があったのですが、終戦後間もない昭和20年(1945年)8月20日に発生したこの辺りを広く焼いた大火で焼失してしまいました。
宝光社
宝光社の見どころについては、こちらの記事を見てください。
また戸隠商工会館から宝光社までの詳しい道のりについては、こちらの記事を見てください。
宝光社から火之御子社(0.7km)
宝光社から火之御子社までの道のりはおよそ0.7kmあります。
伏拝所(ふしおがみしょ)
神道の途中に、その昔「御正体(みしょうたい)」が飛来し、宝光社の創建を指示された場所である伏拝所があります。
宝光社創建の由来の詳細は、関連記事こちらの記事を見てください。
当時はここから奥社まで見通せたということですが、今は木が茂り、奥社を望むことはできません。
火之御子社
火之御子社の見どころについては、こちらの記事を見てください。
宝光社から火之御子社への詳しい道のりについては、こちらの記事を見てください。
火之御子社から中社(0.7km)
火之御子社から中社までの道のりはおよそ0.7kmあります。
中社
中社の見どころについては、こちらの記事を見てください。
火之御子社から中社までの詳しい道のりについては、こちらの記事を見てください。
中社から奥社参道入口(2.0km)
中社から奥社参道入口までの道のりはおよそ2.0kmあります。
女人堂跡(にょにんどうあと)
もともとは、この地に奥社遥拝堂(おくしゃうはいどう)がありました。
明治まではこれより先は、修行の地として女人禁制でした。
そのため、参拝に来た女性はここから奥院(奥社)を遥拝していました。
明治に入り廃仏棄釈となり、女人禁制は解かれ、その時にお堂も取り壊されてしまいました。
またここは、奥院堂と越後道の分かれ道となっており、道標も建てられています。
道標には「右 えちごみち 左 おくのいん」と記されています。
道標の上部真ん中には廃仏棄釈の時に梵字が削られた跡が残っています。
比丘尼石(びくにいし)
女人堂跡には、かつて奥社遥拝堂(おくしゃうはいどう)がありました。
そこから先は修行の地であり、女人禁制とされており、女性は奥へ進むことはできませんでした。
ところがこの禁を破り、奥へ進もうとした尼僧がここで石になったとされているのが、比丘尼石(びくにいし)です。
比丘尼石伝承
よく晴れたある秋の日、一人の比丘尼がお供を連れて戸隠へやってきました。二人は奥の院目指して、この女性が立ち入る事ができる限界点の女人堂までやってきました。お供はもとより比丘尼はこれより先は女人禁制であることを十分承知していました。ところが、比丘尼はそんな掟など気にしないがごとく、女人堂より奥へズンズンと歩き出しました。お供は慌てて比丘尼を引き止め「ここで遥拝をして、早々に下山いたしましょう」と強く申し入れましたが、比丘尼はお供がいかに申し入れても聞き入れることなく、更に奥へ進もうとします。 |
女人結界碑(にょにんけっかいひ)
女人結界碑(にょにんけっかいひ)は寛政七年(1795年)6月の建立で「右 奥院中院 両道女人結界 左 中院へ女人道 於当山本坊新建之 願主 山中為之進義」と記されています。
「右 奥院中院」は奥院を経て中院へ行く道で男道と呼ばれていました。また「女人道」は奥院に寄れない女性たちが越後から中院へ行く道で女人堂跡に続いています。
戸隠山公明院(とがくしやま こうめいいん)
公明院は全国的にも珍しい神仏習合(しんぶつしゅうごう、 日本古来の神と外来宗教である仏教とを結びつけた信仰のこと)のお寺で、戸隠最後の修験道行者といわれる女性、姫野公明師が建てたものです。
公明師は明治31年に生まれ、中国で修行後、昭和16年に戸隠に入り、戸隠信仰遺跡の発掘にも務めた人物です。
明治天皇叔母宮尼公により剃髪を賜ったことから天皇の隠し子ではないかといわれたこともあったようです。
釈長明火定の地(しゃくちょうめいかじょうのち)
公明院の一角に平安時代の戸隠山の住僧で法華経の修験者だった釈長明(しゃくちょうめい)の「火定」(かじょう)の跡があります。
釈長明(しゃくちょうめい)は永保年間(1081~84年)の頃、25歳から無言のまま横にもならずに行を続けた修験者で、最後は生きながらに身を焼き、兜率天(とそつてん、、仏教の世界観における天界の一つ)に上る火定(仏道修行者が火の中に身を投げ入れて、即身仏となること)を行いました。
火定により即身仏となり、衆生救済を願ったとされています。
日本六十六州一の宮(にほんろくじゅうろくしゅういちのみや)
公明院の境内に日本六十六州一の宮(にほんろくじゅうろくしゅういちのみや)があります。
文化8年(1811年)に、戸隠栃原にある大昌寺に和尚瑞応は、長明と自分の両親の菩提を弔うために法華経六十六部を書き写し、箱に入れて地中に埋めました。
そして、そこに法華経六十六部供養塔を建て、周りにそれぞれ一基ずつ日本六十六国の一の宮を安置しました。
六十六州とは全国六十六ヵ所の霊場のことで、そこに法華経を一部ずつ納めて巡礼する行脚僧がいました。ここでは六十六ヵ所の霊場をその国の一の宮と見立て、ここに参拝すれば、六十六国すべてを廻ったことになるとされています。
稚児の塔(ちごのとう)
公明院から少し行くと見えてくるのが、稚児の塔(ちごのとう)です。
その昔、養子をもった夫婦がいました。
妻の留守中に妻宛に届いた手紙があったのですが、夫はこれをたいそう怪しんだそうです。
実際にその手紙は艶文だったのですが、夫は字が読めなかったことから、字の読める養子に手紙を読ませたそうです。
するとその養子は、夫婦仲が壊れることを心配して、あたかも普通の手紙のごとく読み上げたので、夫婦仲が壊れることはなかったそうです。
これを知った里の人たちは、たいそう感心して、後に供養塔を建てたものだと言われています。
展望台
奥社参道入口に出るまでに、戸隠山が一望できる展望台があります。
この日は少し雲が掛かっていましたが、雲がない日はきれいに戸隠山を見ることができる展望スポットです。
奥社参拝者用有料駐車場から歩いても5分くらいでここまで来れますので、ぜひここまで来て荘厳な戸隠山をみてください。
中社から奥社参道入口までの詳しい道のりについては、こちらの記事を見てください。
奥社参道入口から奥社(2.0km)
奥社参道入口から奥社までは、およそ2.0kmの道のりです。
奥社参道の見どころについては、こちらの記事を見てください。
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